西教寺(さいきょうじ)
比叡山の東の麓に建つ西教寺は、令和2年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公の明智光秀の菩提寺で、明智光秀一族の墓と光秀の正室熙子の墓があり、大勢の人が訪れています。
西教寺の歴史は古く、聖徳太子が高麗僧恵慈(えじ)・恵聡(えそう)のために建立したのが最初と伝えられます。
元亀2年(1571年)9月の織田信長による比叡山焼き討ちは、比叡山延暦寺だけでなく門前町の坂本などもことごとく焼失しました。比叡山の東麓に建つ西教寺の堂宇も焼かれ、その後の復興に明智光秀が尽くしました。
国の重要文化財に指定されている西教寺の本堂は、江戸時代の享保16年(1731年)に改築されたもので、入母屋造(いりもやづくり)、瓦葺(かわらぶき)で桁行(けたゆき)7間、梁間(はりま)5間の大きさです。
西教寺へはJR湖西線の「比叡山坂本」駅より江若交通バスの西教寺行きに乗車して7分程で「西教寺」で降ります。京阪電車の「坂本比叡山口」も経由します。
車の場合は湖西道路の「下坂本IC」から10分程です。
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西教寺本堂の由緒
▼下の文章は西教寺の本堂に掲示されている大津市教育委員会の説明板をそのまま再録しています。
重要文化財 建造物
西教寺本堂
(さいきょうじほんどう)一棟
大津市坂本五丁目
本堂は桁行(けたゆき)七間、梁間(はりま)六間、一重、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)の建物で、正面には三間の向拝(こうはい)を付けています。
棟札(むなふだ)によると、元亀(げんき)二年(一五七一)の織田信長の比叡山焼打ちによる本堂焼失後、天正(てんしょう)二年(一五七四)に本堂の再興棟上が行われたことがわかります。その後享保(きょうほう)三年(一七一七)に第二十世の真際上人(しんさいしょうにん)が再建に乗りだし、門末壇徒から浄財を集め、元文(げんぶん)四年(一七三九)に落成したのが、現在の本堂です。
正面の欄間(らんま)や須弥壇(しゅみだん)は、すべて欅(けやき)の素木(しらき)造りで豪華な彫刻を施し、それぞれ江戸時代の特色をよく表しています。
昭和六十一年五月二十四日に国の指定文化財
となりました。
大津市教育委員会
昭和六十三年二月
上の文章は西教寺の本堂に掲げてある大津市教育委員会の由緒書(下の写真)を再録しています。
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