元治元年(1864)7月に長州兵が御所を攻め入った「蛤御門の変」で京都の町は焼け尽くしました。この時に菊水鉾も焼失しましたが、昭和27年に88年ぶりに再興され、「昭和の鉾」といわれています。

 祇園祭の鉾で唐破風の屋根は菊水鉾だけです。鉾頭には直径50センチの金色の16弁の菊の花が天に向かって咲くように取り付けられています。

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菊水鉾の説明

▼下の文は菊水鉾の鉾町に掲示されていた京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。

菊水鉾(きくすいほこ)

 町内に古くよりあった菊水井(きくすいい)にちなむ。鉾頭(ほこがしら)には金色透かし彫十六弁菊花を付け、真木の中ほどの「天王座(てんのうざ)」には彭祖(ほうそ、中国古代の伝説上の長寿者)像(ぞう)を祀(まつ)る。
 元治元年(一八六四)の兵火で鉾は焼失したが、昭和二十七年、八十八年ぶりに再興、同二十八年六月に完工祭を斎行。
 稚児(ちご)人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという菊慈童(じどう)で能装束の舞姿である。屋根は唐破風造(からはふづく)りで、彫師、海老名峰彰(えびなほうしょう)作の鳳凰の懸魚(けぎょ)を飾り、軒下に翠簾(すいれん)を掲げるところは特に他の鉾と異なる。昭和二十九年、皆川月華(みながわげっか)作唐獅子図の胴懸(どうがけ)と飛鶴図(ひかくず)の前懸(まえかけ)が、同三十三年には山鹿清華(やまがせいか)作の一番水引(みずひき)、同三十五年には皆川泰蔵(みながわたいぞう)作の二番水引が加わり、同三十六年には月華作孔雀図の豪華な見送(みおくり)が完成。同三十九年には三輪晁勢(みわちょうせい)筆天井絵が、その後、小林尚珉作(こばやししょうみんさく)の錺金具(かざりかなぐ)が製作された。引き続いて、晁勢筆の天水引、月華作の下水引、岩澤重夫(いわさわしげお)筆の深山菊水図綴織(つづれおり)見送等も新調され、菊水は「昭和の鉾」として、その偉容を整え進化を続けている。
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▲上の文は菊水鉾の鉾町に掲示されている京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。