放下鉾の名前の由来になっている放下僧(ほうかぞう)とは能の曲目にもなっており、街角などで芸を演じて仏法を説いた僧と伝わります。

 放下鉾の三光丸と名付けられた稚児人形は人形方によって巡行中に稚児舞を披露します。

 放下鉾の見送り「バグダッド」はフクロウが描かれたローケツ染で、皆川泰蔵氏が寄贈したものです。

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放下鉾の説明

▼下の文は放下鉾の鉾町に掲示されていた京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。

放下鉾(ほうかほこ)

 鉾の名は真木(しんぎ)の中ほどの「天王座(てんのうざ)」の放下僧(ほうかそう)像を祀るのに由来、鉾頭(ほこがしら)は日・月・星の三光が下界を照らす形を示し、その型が州浜(すはま)に似ているので別名を「すはま鉾」ともいう。
 かっては「生稚児(いきちご)」であったが昭和四年以降は稚児人形に替えられた。これは久爾宮大嘉王(くにのみやたかおう)により三光丸(さんこうまる)と命名され、巡行の折には生稚児同様、稚児舞ができるようにつくられている。
 この鉾は明治中期に大改造され、金具類も順次整備された。破風(はふ)正面の三羽の丹頂鶴(後面二羽)は幸野楳嶺(こうのばいれい 一八四四~一八九五)の下絵を高浮彫し、大正六年に完成したもの、下水引(したみずひき)は与謝蕪村(よさぶそん 一七一六~一七八三)下絵の琴棋書画図(きんきしょがず)であったが平成六年から栂尾(とがのお)高山寺の国宝華厳宗祖師絵伝(けごんしゅうそしえでん)を下絵にした綴織(つづれおり)になる。三番水引の青海波におしどり図綴織は、駒井源琦(こまいげんき)の下絵による旧品の復元新調品。前懸(まえかけ)・胴懸(どうかけ)は花文様のインド絨毯(じゅうたん)で、見送(みおくり)は昭和五十七年から皆川泰蔵(みながわたいぞう)作のロウ染め「バグダッド」を使用。旧胴懸として十六世紀製で拝対馬と銘文のある描絵玉取獅子、牡丹、鶴文様の朝鮮毛綴(けつづれ)や、フランス捺染(なせん)胴懸等数多く保存されている。
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▲上の文は放下鉾の鉾町に掲示されていた京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。