今から500年程前の室町時代後期の永正(えいしょう)年間(1504~1521)に京の都に大火事が発生し街が燃え盛りました。その時、天から霰(あられ)が降ってきて無事に火事は収まりました。

 その折に霰とともに天神様の像が屋根の上に舞い降りました。天神像は身の丈がわずか一寸二分の小さい像と伝えられています。

 この天神像を火除けの守り神として町内にお祀りしました。これが由縁で霰天神山ができました。

 霰天神山の山の上の唐破風春日造の天神宮には高さが4センチ程の小さな天神様の座像がお祀りされています。

 この由縁から霰天神山は「火除け天神山」とも呼ばれ、錦小路の町名から「錦天神山」ともいわれています。

霰天神山の説明

▼下の文は霰天神山の山鉾町に掲示されている京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。

霰天神山(あられてんじんやま)

 錦小路通室町西入にあるので「錦天神山(にしきてんじんやま)」、または「火除(ひよけ)天神山」ともいわれる。永正年間(一五〇四~一五二○)京都に大火のあったとき、時ならぬ霰が降り猛火はたちまち消えたが、そのとき一寸二分(約三・六センチ)の天神像が降ってきたのでこれを祀ったのが霰天神山の起こりであるという。
 山の上には欄縁(らんぶち)にそって朱塗り極彩色の廻廊(かいろう)をめぐらし、中央に唐破風春日造(からはふかすがづくり)の神殿を安置する。前懸(まえかけ)は十六世紀にベルギーで製作されたイーリアス物語を描いた毛綴(けつづれ)を用いて来たが、平成二十一年、復元新調した。他に、中国刺繍の太湖岩鳳凰図もある。左右の胴懸(どうかけ)は上村松篁(うえむらしょうこう)(昭和六十年新調)、上村淳之(あつし)(平成十四年新調)親子の原画花鳥綴織(つづれおり)で、後懸は雲龍文様綴錦(うんりゅうもんようつづれにしき)(平成二十一年新調)。旧胴懸(どうかけ)の曙織(あけぼのおり)、蝶に牡丹図(文政三年(一八二〇)製)は大切に保存されている。
 山の縁起にちなみ宵山には「火防(ひぶ)せ、雷除(よ)け」の御守が授与される。
             京 都 市
▲上の文は霰天神山の山鉾町に掲示されている京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。