橋弁慶山の山の上は牛若丸と弁慶が五条の橋の上で戦う姿を再現しています。これは謡曲「橋弁慶」から取材したと説明されています。
 永禄6年(1563)の銘のある牛若丸は足駄の金具1本で立っています。

橋弁慶山の説明

▼下の文は橋弁慶山の山鉾町に掲示されている京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。

橋弁慶山
(はしべんけいやま)

 謡曲「橋弁慶」を題材とし、弁慶と牛若丸が五条の大橋で戦う姿を表している。弁慶は鎧(よろい)姿に大長刀を斜にかまえ、牛若丸は橋の欄干(らんかん)の擬宝珠(ぎぼし)の上に足駄立ち、片足を曲げ右手に太刀を持っている。橋は黒漆塗で特に牛若丸の人形は足駄金具一本でこれを支えている。弁慶と牛若丸の人形には、永禄六年(一五六三)大仏師康運(こううん)作の銘があり、また牛若丸の足の鉄串には、「天文丁酉(ひのととり)(一五三七)右近信国(うこんのぶくに)」の銘がある。
 前懸(まえかけ)は中国清朝の頃の雲龍波濤文様(うんりゅうはとうもんよう)の綴錦(つづれにしき)であったが、昭和五十八年から新しく富岡鉄斎(てっさい)原画の椿石霊鳥図(ちんせきれいちょうず)綴錦が用いられている。胴懸(どうかけ)の加茂葵祭行列図(かもあおいまつりぎょうれつず)綴錦は円山応挙(まるやまおうきょ)(一七三三~一七九五)の下絵と伝えられている。水引(みずひき)は百子門様(からこもんよう)の綴錦、後懸(うしろかけ)は雲龍文様の刺繍(ししゅう)である。なお、この山は舁山(かきやま)で唯一鬮(くじ)取らずであり、古来後祭(あとまつり)の先頭を行く慣しがあっが、明治維新後になり曳山(ひきやま)に先頭を譲る。
 また町内保有の「黒韋威肩白胴丸(くろかわおどしかたしろどうまる」は室町時代中期の作で重要文化財に指定されている。
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▲上の文は橋弁慶山の山鉾町に掲示されている京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。