中国二十四孝は、700年程前の中国元代の文士である郭 居敬が孝行に優れた24名の人物を取り上げて編纂した書物です。

 中国二十四孝は日本にも影響が大きかったようで、祇園祭の山鉾でも郭巨山の他に孟宗山が中国二十四孝の一人である孟宗の話にちなんで造られています。

 郭巨山は別名を釜掘山(かまほりやま)とも呼ばれるのは、史話二十四孝の一人の郭巨(かくきょ)は貧しくて妻と老母を養うのが精一杯で、3才の我が子に食を与える余裕も無い状態でした。

 郭巨の母は自分の食べ物を孫に分け与えるようになり痩せ細ってしまいました。

 郭巨は「子は再び得られるも、親は得られず」と妻に語り、我が子を土に埋めて老母の食を減らさぬことを決意し、郭巨が穴を掘っていると黄金の釜が地下より現れ、その中に「天、孝子郭巨に賜(たま)う」と書かれていました。

 黄金の釜は天が郭巨の親を思う心を賞でて与えたもので、その釜は誰も奪い取れなかったという逸話が書かれています。
 

郭巨山の説明

▼下の文は郭巨山の山鉾町に掲示されている京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。

郭巨山(かっきょやま)

 中国の史話「二十四孝」の一人「郭巨」の釜掘り の故事にちなんで造られ、「釜掘り山」ともいわれる。
 山に飾る御神体(人形)の郭巨と童子は寛政二年(一七九〇)金勝亭九右衛門(きんしょうていきゅうえもん)の作、前懸(まえかけ)は天明五年(一七八五)製の唐美人遊楽(からびじんゆうらく)図の絽刺(ろざし)、胴懸(どうかけ)は石田幽汀(ゆうてい)(一七二一~一七八六)の下絵による呉道子描龍(ごどうしりゅうをえがく)図と陣平飼虎(ちんぺいとらをかう)図の刺繍で天明五年の松屋源兵衛の作、旧後懸(きゅううしろかけ)として天明五年改修の黒ビロード地福禄寿(ふくろくじゅ)図刺繍がある。見送は文化十三年(一八一六)製で円山応震(まるやまおうしん)(一七九〇~一八三八)の下絵による山水仙人図。
 昭和五十八年から、新しく上村松篁(うえむらしょうこう)原画による秋草(あきくさ)図前懸、花(はな)の汀(みぎわ)図および春雪(しゅんせつ)図胴懸、都(みやこ)の春(はる)図見送の綴織(つづれおり)を順次新調、後懸(うしろかけ)は阿国歌舞伎(おくにかぶき)図綴織を新調した。千宗室(鵬雲斎(ほううんさい))寄贈の漢詩文の見送がある。
 この山に限って、桐桜菊の欄縁(らんぶち)の下に金地彩色宝相華文様(きんじさいしきほっそうげもんよう)の乳隠(ちかく)しが用いられ、また屋根覆いをかけている。
             京 都 市
▲上の文は郭巨山の山鉾町に掲示されている京都市の駒札説明板(下の写真)を書き写しています。